横坂康彦 音楽学・音楽評論
プロフィール著書論文リンク集
プロフィール
横坂康彦教授横坂康彦


Biography: Yasuhiko Yokosaka

Born in 1956, Yasuhiko Yokosaka was educated at Baker University (BA, 1978), Vienna International Music Center (1977), Yale Institute of Sacred Music (MM with Hugh Porter Scholar Award, 1981), and Columbia University Teachers College (Ed. D., 1985). While at Columbia University, he worked as Administrative Secretary for Raymond F. Glover, editor of The Hymnal 1982 (1985) of the Episcopal Church in the United States of America. Upon returning to Japan, Dr. Yokosaka joined the Hymn Committee and the Hymnal Revision Committee of the United Church of Christ in Japan, producing Sambika 21 (The Hymnal 21) (1997). He also joined the faculty of Niigata University where he taught musicology and arts management.

With five others, he compiled a collection of 32 hymns from the Iona Community (1999) and 25 hymns by Carl P. Daw, Jr. (2002), both in Japanese translation, and became a founding member of the Hymn Society in Japan in 2001 (Vice President, 2006 – 2011; Advisor, 2013-). In addition to his work as a hymnal editor, he has contributed 25 books on hymnody including Companion to The Hymnal 21 (1998), Hymn Poets and Composers: A New Generation (1999), Hymn Explosion (2001), History of Christian Hymnody, Revised (2004) with Megumi Hara, Barefoot in the Dust: A Hymn Poet’s Memoir by Brian Wren (translation, 2004), Christian Hymnody in Japan (2006), and various articles on Japanese hymnody in The Canterbury Dictionary of Hymnology. As a life member of the Hymn Society in the United States and Canada, he has given plenary lectures (York, 1997; Halifax, 2003; Ottawa, 2007) on the theme of blending Western and Asian traditions through contemporary Christian hymnody in Japan.

He was elected a Fellow, Division of Humanities and Social Sciences (2021.4−2023.3) as well as Professor Emeritus of Niigata University. In 2020, he delivered the plenary lecture "The Hymn Society in Japan: its Past and Future" in the conference celebrating the 20th anniversary of the Hymn Society in Japan, and contributed to the 100 anniversary of the Hymn Society in the United States and Canada in 2022 by translating responses and prayers used in its conference in Washington, D. C. In July 2023, Kyodo News interviewed him on contemporary Christian hymnody in Japan in relation to the two new hymns written by Yoko Suzuki, one of the organists at the Basilica of the Sagrada Familia in Barcelona. The article including his comment and a story behind these hymns is published in more than forty different newspapers throghout Japan including Tokyo Shimbun and The Kyoto Shimbun. If you are fluent in Japanese, you can enjoy reading it at the end of the bio.

He is heavily indebted to Prof. Richard F. French at Yale Institute of Sacred Music who drew him into musicological research, Raymond F. Glover, the Editor of The Hymnal 1982, who introduced him to richness of contemporary American hymnody, and Megumi Hara, Professor Emeritus of Aoyama Gakuin University, who helped him grow insight into research in hymnology.



音楽学者・音楽評論家。専門はキリスト教音楽、とりわけ現代の英語賛美歌。ベーカー大学音楽学部(BA, 1978)とウィーン国際音楽センター(1977)に学び、イェール大学大学院宗教音楽研究科修士3年課程(MM, 1981 Hugh Porter Scholar最優秀賞受賞)、並びにコロンビア大学大学院教育学研究科博士課程(Ed. D, 1985)を修了。教育学博士。コロンビア大学院在学中にアメリカ聖公会聖歌編集局での The Hymnal 1982 の改訂作業に、編集長 Raymond F. Glover 氏の編集書記として携わる。

1985年に新潟大学へ赴任。音楽学とアーツ・マネジメント講座を担当。2021年3月、新潟大学大学院教授を定年退職し、現在は、名誉教授、人文社会科学系フェロー(2021〜22年度)。マネジメント系プロジェクトではSony Music Foundation と五嶋みどりの協力のもとに展開された総合芸術体験 Total Experience を初め、新潟県文化振興財団や新潟市西区役所との共催で伊藤恵やジュリアード弦楽四重奏団、ジャン=ギアン・ケラスやルートヴィッヒ・チェンバープレーヤーズなど国際的アーティストのコンサート(マスタークラス・シンポジウム)等を大学カリキュラムの中で企画・運営。文化庁の支援事業に3年間採択されて、ニューヨークフィル教育部門のアーティスト達と学生が協働で新しいコンサートのあり方を模索するステージを企画・運営するなど、多くの成果を上げた。(2019年度、音楽表現コースの廃止と共にマネジメント系プロジェクトは終了。)また新潟国体音楽部門長(2009)、「水と土の芸術祭」(新潟市)ミュージック・アドヴァイザー(2009)、新潟日報紙での音楽評論(1989~)、新潟市音楽文化振興財団理事等を務め、地元の音楽文化に貢献している。

賛美歌学研究では下記の主要著書以外に、アメリカ・カナダ賛美歌学会、国際賛美歌学会、イギリス・アイルランド賛美歌学会、ウェールズ賛美歌学会共催の賛美歌世界大会(York1997, Halifax2003)やアメリカ・カナダ賛美歌学会大会(Ottawa2007)に全体講演者として招かれるなど、積極的な研究活動を行っている。長期にわたる病気療養を経て教育・研究活動に復帰し、2020年9月には日本賛美歌学会設立20周年記念特別講演会において「日本賛美歌学会~その歩みと展望」と題して講演を行った。また2021年12月にはアメリカ・カナダ賛美歌学会のセミナーに講師として招聘され、現代日本の創作賛美歌について講演した(フライアー参照)。2022年には同学会設立100周年記念大会にて用いられた祈祷文の邦訳なども手掛ける。2023年、現代賛美歌の潮流について、サグラダファミリア教会オルガニストの鈴木羊子氏の創作賛美歌との関連で共同通信社の取材を受け、その記事が、東京新聞、京都新聞、西日本新聞など、全国40紙以上に掲載された。(下記データ参照)


西日本新聞 2023年8月17日夕刊より転載(許諾済)


国際的な研究活動が評価され、イギリスの権威ある The Canterbury Dictionary of Hymnologyに初の現役日本人研究者として掲載されている。また同書への執筆を通して日本での研究成果を世界に発信。

イェール大学大学院で出会ったリチャード・F・フレンチ教授に音楽学研究の醍醐味を教えられ、アメリカ聖公会聖歌編集局のレイモンド・F・グラヴァー氏に現代アメリカの創作賛美歌の豊かさに開眼させられ、帰国後の研究活動には青山学院大学名誉教授・原恵氏より貴重な助言をいただいた。これらの方々に心から感謝申し上げたい。アメリカ・カナダ賛美歌学会終身会員。日本賛美歌学会顧問。


※セミナーは終了し、レビューが巻末に掲載されています。


主要著書
『讃美歌21略解』(編・著、日本キリスト教団出版局、1998)
『バッハ全集』第10巻(小学館創業75周年記念、1998)
『新しい賛美歌作家たち』(日本キリスト教団出版局、1999)(版元品切れ)
『現代の賛美歌ルネサンス』(同、2001)
『Mozartiana』(東京書籍、2001)
『小出郷文化会館物語』(水曜社、2002)
『新版 賛美歌:その歴史と背景』(日本キリスト教団出版局、2004)
『塵のなかに素足で:ある賛美歌詩人の世界』
  (ブライアン・レン著、拙訳、同、2004)
『現代日本のキリスト教芸術Ⅰ・音楽』(編・著、同、2006)
『Mozartiana Nova』(音楽之友社、2011)
他14件(報告書等を除く)

主要賛美歌集(編・訳)
Sound the Bamboo: CCA Hymnal (1990)
  (AILM 現SAMBALIKAAN、1990)
『讃美歌21』(日本キリスト教団出版局、1997)
『みんなで輝く日が来る:アイオナ共同体賛美歌集』(同、1999)
『神の時は 今 満ちて:カール・P・ダウ, Jr. 賛美歌集』(同、2002)
『竹を鳴らせ: CCA ヒムナル』
  CCA Hymnal 2000: Sound the Bamboo 訳出版(日本賛美歌学会、2006)
『おお なんという恵みよ!:パブロ・ソーサによる賛美歌集』
  (同、2009)
『Jumping Jesus:ニュージーランドの創作賛美歌集』(同、2012)

主要辞典・総説類
『総説実践神学Ⅱ』(日本キリスト教団出版局、1993)
『新編 音楽中辞典』(音楽の友社創立60周年記念、2002)
『キリスト教礼拝・礼拝学事典』(日本キリスト教団出版局、2006)
The Canterbury Dictionary of Hymnology (Canterbury Press, 2013〜)
『新版キリスト教大事典』(教文館)に賛美歌関連項目を執筆(2021年1月)
他1件

主要論文
・日本語賛美歌における詩編唱 (韓国賛頌歌公会主催第3回アジア賛頌歌国際大会紀要、1994)
・The Editorial Principles of "The Hymnal 21" of the United Church of Christ in Japan
  (国際賛美歌学会紀要I. A. H. Bulletin 26、1998)
・芸術教育とアートマネジメント〜産・官・学による新しい連携を求めて
  (日本アートマネジメント学会紀要第4号、2003)
・Current Trends of Hymns for Children in
 "The Hymnal for Children (rev.)" of the United Church of Christ in Japan (2002)
   (ティミショアラ大学・国際賛美歌学会共催第6回国際賛美歌セミナー紀要、2004)
・Biblical Hymnody の多様性〜20世紀後半以降の英語賛美歌を中心に
  (日本基督教学会紀要『日本の神学』43、2004)
・History of Christian Hymnody in Japan: focusing on
 "The Hymnal 21" of the United Church of Christ in Japan
   (台湾国立芸術大学主催 2004国際宗教音楽学術研究会紀要、2004)
・障害を持つ子どもたちと芸術を繋ぐ卒業研究〜新潟市内の小中学校22校との連携を通して
  (日本教育大学協会『教科教育学研究』第23集、2005)
・Issues in Translating Christian Hymns into Japanese Language
  (アメリカ・カナダ賛美歌学会紀要 The Hymn Vol. 56, No. 3、2005)
・トータル・エクスペリエンス in 新潟大学〜大学・地域・世界を結ぶ総合的芸術体験
  (日本アートマネジメント学会紀要第7号、2006)
・Blending Western and Asian Traditions through Contemporary Christian Hymnody in Japan
  (アメリカ・カナダ賛美歌学会紀要 The Hymn Vol. 59, No. 4、2008)
・日本賛美歌学会〜その歩みと展望(日本賛美歌学会設立20周年記念特別講演)
  (日本賛美歌学会紀要第10・11合併号、2023)
他92件

アートマネジメント系プロジェクト
・Total Experience in 新潟大学「五嶋みどり ヴァイオリン・リサイタル」
  (新潟大学教育学部・Sony Music Foundation 共催、2005)
・新潟大学邦楽プラクティカ「沢井一恵マスタークラス」(後援: 新潟大学教育学部後援会・同窓会、2006)
・新潟大学コンサートシリーズIAS第2回「ジャン=ギアン・ケラス無伴奏チェロ・リサイタルとマスタークラス」
  (協力: 日本交響楽協会、2007)
・新潟大学コンサートシリーズIAS第3回「ヘルシンキ大学男声合唱団演奏会」(協力: 日本交響楽協会、2007)
・みゅーじっくろさき2007「バックビート・パーカッションカルテット演奏会」
  (新潟大学教育学部・新潟市西区役所共催、文化庁「文化による創造のまち」支援事業、2007)
・新潟大学コンサートシリーズIAS第4回「伊藤恵ピアノ・リサイタルとマスタークラス」
  (協力: 梶本音楽事務所、2008)
・みゅーじっくろさき2008「鼓童交流演奏会とシンポジウム」
  (新潟大学教育学部・新潟市西区役所共催、文化庁「文化による創造のまち」支援事業、2007)
・Music from Life〜ニューヨーク・フィルからの贈り物
  (新潟大学教育学部主催、文化庁「文化による創造のまち」支援事業、2009)
・新潟大学コンサートシリーズIAS第6回「クレール・デゼール(パリ国立高等音楽院教授)ピアノ・リサイタル」
  (協力: サントリーホール、2010)
・Lien〜音楽の絆2010「ニューヨークフィル・ティーチングアーティストと
  新潟のアーティストによるコラボレーション」
   (新潟大学教育学部・新潟県文化振興財団・新潟市西区役所共催、2010)
・新潟大学コンサートシリーズIAS第7回「ジュリアード弦楽四重奏団演奏会」
  (新潟大学教育学部・新潟県文化振興財団・新潟市西区役所共催、2011)
・Lien〜音楽の絆2012「アレッシオ・バックス ピアノ・リサイタル」
  (新潟大学教育学部・新潟県文化振興財団・新潟市西区役所共催、2012)
・暮らしっく広場2015「西区国際音楽祭 Ludwig Chamber Players」
  (新潟大学教育学部・新潟市西区役所共催、2015)
他18件


賛美歌研究を接点とする主な国際交流一覧


① 1988年10月 Sound the Bamboo: CCA Hymnal (1990) 編集会議参加
  AILM(現 SAMBALIKHAAN)(Manila)

② 1990年8月 第1回アジア国際賛美歌セミナー Christian Academy House
  (Seoul) 「現行『讃美歌』(1956)の音楽的特徴」(発題)『礼拝と音楽』67号、日本キリスト教団出版局)

1992年7月 第2回アジア国際賛美歌セミナー 関西学院千刈セミナーハウス
   レイモンド・F・グラヴァー氏講演会(『礼拝と音楽』74号)(講演・訳)

④ 1994年7月 アメリカ・カナダ賛美歌学会大会(Maryville)出席、並びに同事務局や
  Hope Publishing Co. にて『讃美歌21』の著作権交渉を行う。(『礼拝と音楽』83号)

⑤ 1994年8月 第3回アジア国際賛美歌セミナー Seoul Cultural Center (Seoul)
  “Psalm Singing in Japanese Hymnody” (研究発表)(『礼拝と音楽』83号)

 1994年8月 アヒム・ギーリング氏(ベルリン州教会高等参事官、並びにEvangelisches
   Gesangbuch 1993 編集委員)講演・改訂をめぐる懇談会(『礼拝と音楽』83号)

⑦ 1995年7月 アメリカ・カナダ賛美歌学会大会 University of San Diego (San Diego)
  “Recent Developments in Asian Hymnody: Hymns from the Four Winds (1983)
   and CCA Hymnal (1990)” (研究発表)(『礼拝と音楽』87号)

⑧ 1997年1月 国際セミナー Contextual Worship and Music 台南神学院(台南)
  “The Newly Composed Hymn Tunes in The Hymnal 21 of the UCCJ”(全体講演)
  (『礼拝と音楽』94号、キリスト新聞1997年5月24日)

⑨ 1997年8月 アメリカ・カナダ賛美歌学会、国際賛美歌学会、イギリス・アイルランド賛美歌学会、
  ウェールズ賛美歌学会共催の賛美歌世界大会 St. John’s College (York)
   “The Editorial Principles of The Hymnal 21 of the UCCJ”(全体講演)
  (『礼拝と音楽』95号、国際賛美歌学会紀要IAH Bulletin, vol. 26, 1998)

10 1998年1月 ブライアン・レン氏『讃美歌21』(1997)刊行一周年記念感謝会・
   講演会(キリスト新聞1998年2月7日、『礼拝と音楽』97号)(講演・訳)

⑪ 1999年7月 アメリカ・カナダ賛美歌学会大会 University of British Columbia (Vancouver)
   “Hymnal Show Case” (デモンストレーション)(『礼拝と音楽』103号)

12 1999年8月 ジョン・ベル氏『みんなで輝く日が来る』出版記念講演会
  (キリスト新聞1999年9月11日、『礼拝と音楽』103号)(講演・訳)

13 2002年8月 カール・ダウ氏『神の時は 今 満ちて』出版記念講演会・日本賛美歌学会講演等
  (同紀要第1号、『礼拝と音楽』115号)(講演・訳)

⑭ 2003年8月 アメリカ・カナダ賛美歌学会、国際賛美歌学会、イギリス・アイルランド賛美歌学会、
  ウェールズ賛美歌学会共催の賛美歌世界大会 Dalhausie University (Halifax) 
   “Issues in Translating Christian Hymns into Japanese Language” (全体講演)
  (アメリカ・カナダ賛美歌学会紀要 The Hymn, vol. 56, No. 3, 2005)

⑮ 2004年5月 ティミショアラ大学・国際賛美歌学会共催の第6回国際賛美歌セミナー
   (Timisoara, Romania) “Current Trends of Hymns for Children in The Hymnal
   for Children (rev.) of the UCCJ (2002)” (全体講演・シンポジウムパネリスト)(セミナー紀要)

16 2004年9月 ハンス=ユルク・シュテファン氏 日本賛美歌学会講演
   (同紀要第2号、『礼拝と音楽』124号)

⑰ 2004年10月 2004国際宗教音楽学術研究会 国立台湾芸術大学(台北)
    “History of Christian Hymnody in Japan” (全体講演)(学術研究会紀要)

⑱ 2005年3月 第19回国際宗教学宗教史会議世界大会(東京)でのシンポジウム
    “Christian Hymnody and World Peace” (座長)

⑲ 2007年7月 アメリカ・カナダ賛美歌学会大会 Carlton University (Ottawa)
   “Blending Western and Asian Traditions through Contemporary Christian
    Hymnody in Japan”(全体講演)(同紀要 The Hymn, vol. 59, No. 4)

20 2009年9月 パブロ・ソーサ氏 日本賛美歌学会講演 『おお なんという恵みよ!』
   (同紀要第4号)(講演・訳)

21 2012年9月 コリン・ギブソン氏 日本賛美歌学会講演 『Jumping Jesus』
    (講演は歌集に添付)(講演・訳)

㉒ 2012年10月 国際シンポジウム Discovery of Modernity in East Asian Music:
  The West, Tradition and Beyond 梨花女子大学音楽研究所 (Seoul)
   “Blending Western and Asian Traditions through Contemporary Christian
  Hymnody in Japan” (全体講演)(シンポジウム紀要)

㉓ 2013年9月 アメリカ長老派の賛美歌集 Glory to God 出版記念会出席(Philadelphia)

㉔ 2021年12月 アメリカ・カナダ賛美歌学会国際セミナーにおいて The World Sings :Japanese
   Congregational Song と題してオンライン講演を行った。

注…〇付き数字は海外で行った研究活動で、その他の数字(bold face)は海外から賛美歌作家や研究者、編集者等を招聘した活動を示す。



オンラインセミナー・レビュー


  2021年12月13日(日本時間の14日)、アメリカ・カナダ賛美歌学会主催の国際セミナーで現代日本の創作賛美歌について講演する機会を得た。これは、2022年7月にワシントンD. C.で予定されている同学会設立100周年記念大会の関連企画の一つで、 “The World Sings: Japanese Congregational Song” というテーマでの依頼である。
  同学会の年度大会等では何度か全体講演も行ってきたが、いずれも翻訳賛美歌が中心であったので (“Issues in Translating Christian Hymns into Japanese Language,” The Hymn, 56-3, 2005; “Blending Western and Asian Traditions through Contemporary Christian Hymnody in Japan,” The Hymn, 59-4, 2007, etc.)、今回は主に21世紀に書かれた創作賛美歌から15編を選び、解説と新たに作成した英訳と動画等を併用し、海外の人たちにもできるだけその魅力が伝わるような形で紹介した。今までの講演とはかなり異なる内容となったが、これらの賛美歌についてセミナーを聴講した方はどう思われたのか、アメリカ・カナダ賛美歌学会元事務局長で賛美歌作家のカール・ダウ氏、そして Canterbury Dictionary of Hymnologyの編集者も務めるマイケル・ハーン氏にレビューを依頼した。この講演にゲスト出演された荒瀬牧彦氏との共訳で、ここに掲載したい。
  なお講演で取り扱われた賛美歌は以下の15編で、ダウ氏のレビューではこの順に、ハーン氏は考察の目的に沿って並べ替えているので注意されたい。
1「花彩る春を」(詞:上島美枝 曲: INOCHI 高浪晋一 『讃美歌21』)
2「人間をとる漁師に」(詞: 江原美歌子 曲:日本民謡 『聖書教育』)
3「神さまのせかい」(詞・曲: GOD’S WORLD 江原美歌子 『ユースソングブック』)
4「海の彼方の」(詞: 荒瀬牧彦 曲:KOUJOUNO TSUKI 滝廉太郎 
    日本賛美歌学会『未来に向かって~平和をうたう~』)
5「平和それは」(詞: 荒瀬牧彦 曲: HEIWA 高浪晋一 『歌集Ⅱ』)
6「長崎の空は」 (詞: 加藤望 曲: NAGASAKI NO SORA 宮﨑歩 『聖歌集』)
7「沖縄の磯に」(詞: 山野繁子 曲: NUCHIDU TAKARA 下地薫 『聖歌集』)
8「剣を鋤に」 (詞・曲 : MICAH4:3 江原美歌子)
9「私は親を」 (詞・曲 : WATASHIWA OYAWO 平良愛香 これもさんびかネットワーク)
10「いつもの道を」(詞: 荒瀬牧彦 曲: GOD HAS CALLED US 小室典子 『歌集Ⅱ』)
11「つちくれの歌は」(詞・曲 : TSUCHIKURENO UTAWA 吉高叶『ユースソングブック』)
12「恐れにとらわれ」(詞: 宮﨑光  曲: KANAME Nitei Torii 『聖歌集』)
13「風に目をさまして」(詞・曲 : PALACESIDE 聖歌集改訂委員会 『聖歌集』)
14「小さな石を」 (詞: 荒瀬牧彦 曲: SMALL ONE 高浪晋一 『歌集Ⅱ』)
15「本当にすっかり」(詞 : 荒瀬牧彦 曲 : KARAPPO 川上盾 『歌集Ⅱ』)
     (※なお『歌集Ⅱ』は、賛美歌工房の2021年版)


日本の新しい創作賛美歌に接して

Carl P. Daw, Jr.
(アメリカ・カナダ賛美歌学会 元事務局長)

  この講演は、日本における創作賛美歌の現状を知る上で非常に有益かつ刺激的なものであった。創造性に満ちた活発な創作状況のわかる実例が示され、それらは、西洋の賛美歌世界にほとんど知られてこなかったその実態へと導いてくれる。次にコメントするように、これらの実例は会衆歌の全体像を理解することに貢献するだけでなく、海外に住む我々に実に多くの事を教えてくれた。

1「花彩る春を」
  最初の賛美歌は、横坂康彦氏が説明されたように、日本の伝統的な作風の一つである自然を創作の拠りどころとしてはいるが、自然の描写が神の存在を覆い隠すことがない。つまり、全4節はそれぞれ4つの季節に触れてはいるものの、季節そのものを祝うのではなく、信仰生活の春夏秋冬が反映されたキリストの友たちの生き様を描いている。その友たちは、信仰生活を生きる上での励ましであり、「主への道」の道標である。一見シンプルに、淡々と物語るようなこの詞は、キリスト教共同体の重要性やキリストの体における多様性についての深い洞察を、そのような大仰な言葉を一切使わずに表現していて興味深い。集会で歌われる会衆歌であるから、これを歌う人たちそれぞれが持っている信仰の友を思い起こさせ、それによってキリスト者としての経験がより広く反映された、確信に満ちた賛美歌となっている。
  ここで用いられた映像では各季節を思わせるイメージ豊かな情景が効果的に組み立てられ、わかりやすい英語の対訳が映し出されるなか、(映像には映らない)聖歌隊が原語で歌っていた。

2「人間をとる漁師に」
  二つ目の映像は今日の実例のうち最も印象的であり、日本での信仰生活がこのようなものかもしれないと思わせるような勢いのあるものであった。2013年に東京でのエキュメニカルな教会音楽祭で収録されたとのことだが、ほぼ30人の男女によって注意深くまた効果的な振り付けで表現されたこの歌は、もともと子どものために書かれたものであることがよくわかる。ほとんどのパフォーマーは、黒い上下に幅の広い袖のついた腰丈の赤橙色の上衣をまとっている。その中心に男性のリーダーがいて、白を基調としたふくらはぎまでカバーする上衣には、赤橙色と黒の装飾が施されている。賛美歌ではイエスが漁師たちに自分の弟子になるよう呼び掛けているので、船を漕いだり、網を投げたり引き寄せたりするような漁の動きが入り混じっているように見える。
  力強い和太鼓やピアノが加わり、間奏には(西洋音楽の)フルートが登場するなどエネルギッシュな演奏が展開された。ソーラン節をベースにしているためか、その勢いは漁師の民謡から引き継がれたものかもしれない。詞は「イエスの愛」という標題と漁のモティーフを興味深い形で結びつけ、イエスの愛は「大きく深い、海より大きい」と歌う。このような流れにより、我々はみな傍観者から人をとるために召された者へと変えられていくのである。
  映像ではさまざまな角度から迫力のある演奏に触れることができた。配布資料には効果的な対訳が掲載されていたが映像には原語のみの表示しかなく、それがかえってイベントに参加したような臨場感を強める。

3「神のせかい」
  次の賛美歌は、創世記の天地創造に基づく詞を日本の民謡をベースとした旋律で歌うものだが、単なる出来事の羅列ではなく、「クリスマスの12日間」のように増えてゆくカタログに一つずつ項目を足していく累積的な歌になっている。このアプローチには歌を楽しくすると同時に、神の創造におけるすべての重要な点を確認するという二つの効果がある。
  最後のリフレイン以外はソプラノ一声部で歌われ、画面には節を追って新たに登場する日本語の単語が書かれたプラカードを持つ子どもたちと、その横に英語の対訳が表示された。この歌が集会で歌われる時には、まず子どもたちが歌い、次に大人たちが一緒になってもう1度通して歌うような、まるで「小さな子どもが彼らを導く」(イザヤ書)歌い方になるのかもしれない。この歌に込められた、自分の文化的遺産の中から適切なリソースを見つけ、状況に適合させて用いるようにという発案も評価したい。

4「海の彼方の」
  ここからいくつか続く平和の賛美歌の最初であり、作詞者である荒瀬牧彦氏がこの詞の背景を説明されて、より良く理解することができた。無言館に展示された、若くして戦死した画家たちの絵に触発されたこの歌の背景は、第二次世界大戦とともに日本の歴史に深く刻まれてはいるが、時代と場所を超えた普遍性を持っている。(第3節にあるように、これらの事は「どこの国の人にも」当てはまるのである。)
  この詞のしみじみとした味わいは、滝廉太郎のエレジーのような響きを持つ「荒城の月」の旋律で効果的に表現され、映像では繊細で芸術的なピアノ伴奏を伴うソプラノ・ソロがその緊張感を伝えていた。また、戦争が人間をモノに変えてしまう(「人の命を盾に変える」)のに対し、イエスの愛と平和は人間をその人本来の個性豊かな姿にする、という痛切な実感が織り込まれている。この歌はさらに、勇気が必要なのは戦争を挑発することではなく、平和をつくり出すことなのだと断言している。

5「平和それは」
  荒瀬氏による平和を主題とする二つ目の賛美歌は、詞のみが紹介された。(チャントのような高浪晋一氏の曲がつけられている。)作詞者はこの歌を書いた理由を、日本のキリスト者は平和の賛美歌をもっと必要としているからだと言うが、それは北アメリカの現状にも当てはまる。
  この賛美歌は平和とは何かという問いに対する一連の答えであり、一つ前の賛美歌「海の彼方の」を補完するものとなっている。平和の持つ多面性を肯定するということは、平和は受動的で効果がないということへの暗黙の反論も含んでおり、それは最終節の最後に「平和 平和 それは動きだすこと 神様の愛受けて」というリフレインで明確に示されている。

6「長崎の空」
  この聖歌の三つの節は、異なった花を活ける三つの花瓶のように形の上ではよく似ているが、活けられている花の違いはそれによって逆に鮮明になる。「長崎の空」「失われた時」「天と地の分かれ道に わたしは立っている」というくり返し現れる部分は、この歌が人類の痛ましい過去から神の希望に満ちた未来へと向かっていくなかで、変化する部分が枝分かれしていく根幹を形作っている。「新しい時を求めながら 天と地を結ぶイェスに ここで出会うため」という最終節には、復活後の主との直接的な出会いがある。何故なら、人の所業が分断させた「天と地の分かれ道」で、イエスが二つを再び結び合わせる手段を差し出してくださるからである。
  映像は教会内での歌唱であり、三人のソリストがピアノ伴奏で各節を歌い、リフレインと最終節は全員が共に歌うスタイルである。パンデミック時代の礼拝では、会衆歌唱に代わってこのような方法も効果的に用いられている。

7「沖縄の磯に」
  沖縄戦は24万人以上の犠牲者を出した第二次世界大戦唯一の日本本土での戦いであり、この聖歌は平和記念行事でも歌われている。最初の二節はこの日の恐ろしい犠牲を思い起こさせるが、リフレインは「命(ぬち)どぅ 宝 小さな命 命こそ宝 豊かな 豊かな命」と歌って、命という贈り物に焦点を当てている。最終節では、沖縄の(磯に立てた)記念の十字架を中心に据え、それを「痛みのしるし」と見ると共に、「新しい命」、「生きぬくことへの はげます言葉」という希望のしるしと見ている。
  映像では、現在の沖縄の情景と共に惨状を伝える歴史的な写真が用いられ、この歌の持つ、過去の犠牲を忘れてはならないという戒めと、この悲劇を繰り返すことなく平和を求めて歩もうという希望とが反映されている。英語の対訳が映し出されるなか、沖縄の民俗楽器であるサンシンの伴奏により男女のユニゾンで歌われる。心に残る、感動的な聖歌である。

8「剣を鋤に」
  平和を主題とする最後の賛美歌「剣を鋤に」へのインスピレーションは、曲名にもなっている MICAH 4:3(ミカ書4章3節)から来ている。この曲は、戦いに終止符を打つことへの切迫感と決意とを伝える上で大きく貢献している。剣を鋤に変えるというイメージは「神の畑を 共にたがやそう」という招きへと展開され、それはとりもなおさず「神さまの道 ここを歩もう」というメッセージに繋がる。
  現代の録画技術を反映するように、最初の4節はピアノ伴奏に支えられた4人のソリストによってそれぞれ日本語で歌われる(画面上に英語の対訳あり)が、最終節では全員が合成画面上に現れ、「神さまの道 ここを歩もう」という言葉をカノンで多重的に歌う。もしこの賛美歌に歌える英語訳が付けられたら、英語圏でも歌われるのではないだろうか。

9「私は親を」
  キリスト教人口が1%未満の日本において、若い世代のクリスチャンが宗教を原因とする家庭内対立に巻き込まれることは想像に難くない。北アメリカではこのような状況は日本とはしばしば異なるけれど、それにまつわる苦悩や離散はよく知られている。この賛美歌の驚くべき点は、扱われている主題そのものではなく、尊敬し、養いなさいと聖書が教える親との人間関係の破れを正面から見据え、そこから逃げずに対決しようとする率直さである。
  映像では作詞・作曲者の平良愛香氏が独唱し、ギター等で伴奏する器楽奏者たちも時おり歌唱に加わる。対訳付きで日本語で歌われるバラードのようなスタイルは、詞が一人称単数形のこの歌では効果的である。旋律の大部分はそういったスタイルに相応しいオリジナルだが、第3節で突然「いつくしみ深い」で知られる賛美歌曲のCONVERSEに変わる。この変化は、親との和解を勧める「善意」の教会員の声を表しているが、しかし詞を読むと、そういう人たちの言葉がかえって自体を悪くすることがわかる。次に元のオリジナル旋律が戻ってきて最後の3節が歌われるが、そこではイエスの声が、この問題に苦しむ人たちは私によって愛されており、私が彼らの問題を「誰よりもよく」理解していると断言する。これ以上の具体的な言葉は使われていないが、育児放棄や虐待をしてきた親の子らは、十字架を負うよう召されているのだと私は信じている。彼らを批判する「善意」の教会員は批判をやめ、イエスの語ることを理解しようとしなかった「善意」の宗教指導者たちのゆえにイエスが十字架につけられたことを思い起こさなければならない。イエスの八福の最後の「幸いである」(マタイ5章11節)は、「義のために迫害される人々」に語られたものである。このような苦しみは本質的に、教会が認めて擁護すべき真実の証言である。
  この賛美歌は特定の人たちにとって牧会的な意味はあるが、集会に集まる会衆全体によって迎えられる歌かどうかは疑問である。むしろ、時によっては会衆「のために歌われる」賛美歌が、会衆「が歌う」賛美歌よりも適切であり得る例の一つなのだろう。

10「いつもの道を」
  荒瀬牧彦氏によるこの賛美歌は、とりわけ競争社会で圧倒され、失敗や挫折を経験した若い世代のために書かれている。最初は失敗や敗北のように見えても、やがて思いがけない形で訪れる恵みの証し、つまり神の摂理が歌われているのである。
  一人称単数形で書かれたこの詞には、1970年代のフォークソングの特徴を持つ曲がよく似合っており、ギター伴奏をしながら独唱する映像も音楽のスタイルに合致している。明快な意味のまとまりや文章のまとまりごとに英訳がつけられているので、内容の把握が容易である。

11「つちくれの歌は」
  この歌には「土の器」である作者の思いが多く綴られており、“Song of the earth” という英語のタイトルはもしかしたら地球を連想させて誤解を招くかもしれない。しかしこの詞は、人間は塵からつくられ、創造主によって常に形成され続けられていると明確に歌っている。従って人間は、地球の、そしてすべての被造物の代弁者なのである。被造物それ自体に神聖さを求めるという罠を注意深く避けながら、この詞は、地球の価値は、被造物である人間と同様に神の創造に由来することを明らかにしている。また一人称単数形で書かれているが、これは誰か特定な人物の言葉ではなく、人類全体の声の代弁として意図されている。
  映像のほとんどはピアノとギター伴奏による独唱であるが、歌唱の最中に何度か映し出される素朴な陶器が豊かなイメージをふくらませる。

12「恐れにとらわれ」
  詞は、作詞者の父親の療養と死に関係しているとのことだが、これが教派歌集に収録されて広く歌われているのは、恐れから希望へと向かう経験が人間だれにでも共通のものだからであろう。この希望への移行は、各節の最後に現れる「神よ 力を 生きる力を」「神よ みわざを 生きる勇気を」「神よ 光りを 生きる希望を」に表れている。
  父親の葬儀で歌われ、オルガン伴奏による会衆歌唱で録音されているが、礼拝堂の内部、ステンドグラス、鮮明な青空をバックにした教会の建物やタワーの外観など、各節ごとに投影される写真も効果的であった。これらは、自信の回復やふくらんでいく希望といったメッセージを表現する上で適切に貢献している。

13「風に目をさまして」
  日本聖公会の聖歌集改訂委員会によるこの聖歌は、歌集が出た当時、朝の歌としては少し感傷的ではないかという指摘があったそうである。しかし2011年の東日本大震災以降は被災地復興の思いに寄り添う心を喚起する希望の歌として、広く歌われるようになったという。
  映像は被災地復興支援活動の一部であり、オルガン伴奏付きの女声合唱が続くなか、幅広い年齢層の子どもたちがさまざまな活動をしている場面が組み合わされている。各節の最後から2行目は、「長い夜にも 朝は訪れる」で統一されており、そして各最終行は「光とともに 朝は訪れる」(第1節)、「希望とともに 朝は訪れる」(第2節)、「命を生かす 朝は訪れる」(第3節)と、さらに希望に満ちた言葉で締めくくられている。映像の最後に青空に向かって伸びる道路が、この歌の希望のメッセージを象徴するようで興味深い。

14「小さな石を」
  作詞者・荒瀬牧彦氏の説明によると、この歌には、小さなものに美しさを見出すという日本文化の視点が反映されているという。全三節の詞は、小さな石、小さな花、小さな歌にそれぞれ焦点を当て、瞑想の手がかりとしている。この三つのイメージは、何気なく、しかし効果的に三位一体に関連づけられているが、それは決して教訓的で重苦しいものではない。
  映像は二つに分かれており、右側の画面ではソプラノ・ソロがピアノ伴奏付きでこの賛美歌を歌い、少し大きめな左側にはそれぞれの節に出てくる石や花などが映し出される。全体として誰でもが迎え入れられるオープンな空間となっており、それは会衆歌がさまざまな形でさらに発展できる可能性を示唆する空間でもある。

15「本当にすっかり」
  最後の賛美歌も荒瀬氏の作詞になるもので、「すっかり」とか「からっぽ」など賛美歌にはほとんど出てこない日常生活の言葉を使いたかったと説明された。この歌では、不要な所有物や願い、それにまつわる不満などをからっぽにすることが強調されている。この全3節の詞には、はっきりとではないが三位一体の構造が用いられており、それぞれの最終行はテーマに沿った祈りでこのように締めくくられている。「土の器を満たしたまえ」「いたむ器を救いたまえ」「欠けた器を用いたまえ」。
  映像では、2020年のペンテコステ礼拝(オンライン)で自分の教会の講壇の前に立ち、ギター伴奏を弾きながら独唱している作曲者の川上盾氏が映っている。礼拝ではなくふつうの状況下で録画されたものであれば変化に乏しい映像と思われるかもしれないが、視覚的なシンプルさが逆にこの歌のテーマと完全に一致している。また、その前景にある生け花がペンテコステの炎を連想させ、この作品をさらに引き立てている。





日本の新しい創作賛美歌に接して

C. Michael Hawn
(南メソジスト大学パーキンズ神学校名誉教授・教会音楽)
(Canterbury Dictionary of Hymnology編集者)


  アメリカ・カナダ賛美歌学会主催のセミナー “The World Sings: Japanese Congregational Song” における横坂康彦氏と荒瀬牧彦氏の講演で扱われた日本の創作賛美歌について、光栄にもレビューを寄稿する機会を得た。この講演は魅力的でよくまとまっており、有益であった。
  ここに示された現代日本の創作賛美歌は、私たち北アメリカと日本のキリスト者たちとを繋ぐ役割を果たしている。キリスト教信仰に関して私たちは多くを共有しているが、日本人固有の経験から、私は共通の神学的諸主題を新鮮な仕方でとらえなおし、キリストに従うことやこの世における神のみ業や聖霊の働きについての私の理解を吟味することができた。私たちは地球上の反対側にいるが、キリスト教信仰の意味や神学を共有している。英訳された詞を通してでさえ、これら15編の賛美歌には神学的な深さがあり、芸術性と創造性に溢れていることがわかる。私は原語で読むことも歌うこともできないが、それらに込められたメッセージや日本のクリスチャンの経験や願望を垣間見ることで、さらなる思索を深めることができた。曲も芸術的で親しみやすく、賛美歌の精神を伝えるものであり、これらが作曲された文化的背景をさまざまな形で反映している。
  日本語の修辞学的ニュアンスや意味の深さを理解することは私にはできない。だがこれらの賛美歌のうち数編は、アメリカ・カナダ賛美歌学会の熟練された賛美歌作家たちによって歌える英訳に起こされる意味が十分にあると思う。このレビューは、日本文化を知っている者としてではなく、それを知らない外側の人間の観点から書かれている。過去25年間、私はアジア諸国を旅して調査・研究を行ってきたが、日本には観光旅行で2度行ったことがあるだけである。このような前提のもと、日本のキリスト者の経験から学ぶことで自分自身の信仰を成長させる機会に恵まれた一アメリカ人賛美歌学者として、この分析に臨みたい。その目的に沿うようにこれらの賛美歌をテーマ別にし、A) 自然、B) 忘れてはならない、C) 親を敬うということ、D) キリストに従う、の4つのグループに分類した。

A) 自然
  日本の賛美歌に、被造世界の美しさである「自然」を拠りどころとするものがあることは意外ではない。日本に行ったことのない西洋人でさえ、水墨画やその他の芸術作品に描かれた日本の伝統的な自然の描写を知っている。ここに分類した賛美歌へのレスポンスは次のようなものである。

1「花彩る春を」
  この詩人は、自然における季節と人生における季節を結びつける思慮深い寓話を提示している。一般的に歌われている西洋の賛美歌の中に、自然の季節感とキリストに伴われる人生の旅路との繋がりを表現する歌を私は知らない。各節において、三人称の視点(「キリストにある友」)と一人称の視点(「私」)を行き来することで、両者の関係性の質が高められている。多くの地域で四季がはっきりしている北アメリカにおいても、この歌は違和感無く受け入れられるのではないだろうか。

3「神さまの世界」
  これは、天地創造の記述を、明確に、そして喜びを持って再現した聖書のリ・テリング(語り直し)である。天地創造の物語ではないが、各節最後で「ハレルヤ」と唱和するアッシジの聖フランシスコが書いた被造世界の賛美「造られたものは」を思い起こさせる。

13「風に目をさまして」
  この聖歌を「自然」に分類したのは、これが自然災害、特に2011年の東北地方の津波との関連で以前より歌われるようになったとの説明があったからである。日本は台風や地震の被害を多く受けてきたことも知っている。同じように台風や竜巻が増え、以前より激しさを増している北アメリカでは、この歌は英語で歌える注意深い訳が作られれば、多くの人々が共感する力に満ちた聖歌になり得ることだろう。喜びは朝に来る…という詩編30編6節に呼応した希望の表現は創造的で力強く、感銘深い。

14「小さな石を」
  この賛美歌は神学的には別の分類に入れるべきかもしれないが、私たち人間の瞑想や反省を起こさせる根源として自然を位置付ける歌と捉え、ここに分類した。四季折々を大きく描く「花彩る春を」や神の偉大な創造を歌う「神さまの世界」、また自然災害と無関係ではない「風に目をさまして」などに比べると、この歌は宇宙の神が最も小さな世界にも美を創造されたというアンチテーゼになっている。このように、小さな石、小さな花、小さな歌など、人生の何気ないものにも美と尊厳があること、そして聖霊によってそれらが用いられることに気づかせてくれる。(注・地球温暖化などの気候変動や地球への配慮をテーマとする賛美歌も、日本の賛美歌作家たちに期待したい。)

B) 忘れてはならない
  第二次世界大戦は、広島や長崎でアメリカが行った大規模な破壊と殺戮、そして長期にわたる沖縄での戦闘を経て、日本人の記憶に深く刻まれている。私たちアメリカ人にはそれに匹敵するような対象が無い。南北戦争は悲惨ではあったが、外部からの脅威によるものではなかった。第二次世界大戦は今でも感情を揺さぶるものであり、しっかり記憶されなければならないにもかかわらず、アジアや中東での長期にわたる悲惨な一連の紛争によって、私たちアメリカ人はそれを忘れ去ろうとしている。2001年9月11日のテロでさえ、1945年に日本人が受けた恐怖と荒廃には到底及ばないにもかかわらず。
  「忘れてはならない」という訴えは、亡くなった人や苦しんだ人々、そしてその喪失の歴史的背景を思い起こさせるものであり、未来の世代への戒めともなる。記憶するということはキリスト者の経験の一部でもある。私たちの信仰は、歴史上にあらわされた神のみ業の記憶と、地上のすべての人々に平和をもたらす神の国にあってこれから実現される約束への希望の上に成り立っている。こういった事柄との関連で、例えば南北戦争が反映された19世紀半ばの標準的な西洋の賛美歌には、ヘンリー・W・ロングフェローの “I heard the bells on Christmas day” やエドモンド・H・シアーズの “It came upon the midnight clear” (『讃美歌21』265「天なる神には」、『新生讃美歌』160「天なる神には」、『聖歌集』83, 84「人には み恵み」)などが挙げられる。多くの20世紀の賛美歌にも反戦を掲げるものは多いが、次の歌ほど胸に刺さるものはない。

4「海の彼方の」
  これは、イザヤ書に示されたイエスの愛のメッセージに反する、抑制のないナショナリズムや戦争に挑戦する預言者的な歌である。作詞者の荒瀬牧彦氏は、巧みに、そして痛烈に戦争の現実を突き付ける。「人の命を盾にする」や「破滅への道を開く」など、言葉は生々しく、痛々しい。日本における歴史と戦いの一部ではあるものの、作詞者は戦争が――「国の違いはあろうとも」――どの国の人にも共通する悲惨な現実をもたらすことを私たちに知らしめる。イザヤ書2章4節やミカ書4章3節に導かれる赦しこそが、それへの答えなのである。

5「平和それは」
  イザヤ書2章4節とミカ書4章3節に基づくもう一つの賛美歌である。この場合の平和とは、完全な意味でのシャロームのことである。作詞者はこの平和のビジョン――安らぎ、約束、みこころ――を、すべての人が大切にされ、互いの痛みを知り、神の愛によって動き出すところという神からの賜物として描いている。

6「長崎の空は」
  この聖歌は長崎での犠牲者を思い起こさせるものである。詞は想像を絶する死と殺戮の記憶から希望へと向かう。くり返し現れる「長崎の空」は強力な隠喩である。長崎の空は、「殉教の道行を見守っている」(第1節)、「夜の闇におおわれ」「原爆の死の灰に染められている」(第2節)、「神の国へいざなっている」「地の民の信仰を抱きしめている」(第3節)。そして「新しい時を求めながら」と希望を歌う最後の2行(コーダ)は、分かたれた天と地とを結ぶものである。

7「沖縄の磯に」
  陸海空で繰り広げられた82日間の壮絶な沖縄戦を想起させる聖歌である。作詞者の山野繁子氏は十字架のイメージを再解釈している。私は、キリストの苦しみの十字架だけでなく、沖縄のアメリカ人墓地に立つ何列もの十字架を思い起こす。「沖縄の磯に立つ十字架」という冒頭は私たちの注意を引きつけ、独り善がりな心を震撼させる。「海が血に染まり」「洞窟の中 絶えゆく命」「十字架は いまも続く 痛みのしるし」と生々しいイメージが続き、リフレインは、命こそ宝、小さな命、豊かな命、と心に刻むべきメッセージを歌い上げている。美しく組み立てられた詞である。

8「剣を鋤に」
  イザヤ書2章4節およびミカ書4章3節の預言者の言葉のストレートな解釈による賛美歌である。作詞者・江原美歌子は、「神さまの声 わたしにひびく」(第1節)、「神さまの国 この地で起こそう」(第2節)、「神さまの声 わたしの(あなたの)声に」(第3節)、「神の畑を 共にたがやそう」(第4節)、「神さまの道 ここを歩もう」(第5節)と、平和への神の招きを明快に表現している。

C) 親を敬うということ
9「私は親を」

  この賛美歌は私には、講演中で扱われた歌の中で最も独創的であった。西洋の若者たちにはアジア人が通常抱くような「親孝行」、もしくは親を敬うという意識は希薄である。親を敬うことへの根拠はキリスト者にとっては出エジプト記20章12節であり、また儒教の思想の延長線上にあるものかもしれない。若者たちの表立った反抗は、もちろん面倒なことではあるが、西洋では想定内であり容認されている。悲しいことに、西洋の若者のすべてが親に対する責任を感じているわけではない。それらを踏まえると、この歌は日本から生まれた機知に富むアイロニーと言うべきだろう。作者の平良愛香氏は人間の存在そのものを脅かす不安を皮肉に富んだユーモアに包んで見事に表現している。彼は、聖書に示された真実と虐待されて育った人々の親への気持ち――親子間の相克を露呈する実存的なジレンマ――と格闘している。その意味で、「いつくしみ深い」の曲であるCONVERSE の引用(その箇所の詞が原語で何であるか私には確かめられないが)は効果的であった。
  この歌は、自分を虐待する親や、こういった痛みや絶望に応えてくれない教会への幻滅や憤りを表現している。会衆歌とは言えないが、告白的であり同時に預言者的な個人の証しである。若い世代の声として、広義の意味での会衆歌に位置付けられるのではないか。こういう問題は教会内では以前からあったが、現在の若い世代が勇気を持ってその痛みに声を上げ始めている。教会は多くの形での虐待を隠蔽し、無視しようとしてきたが、真実が明らかにされなければ贖いはない。この歌は、真実を告白し、損なわれた尊厳の回復を願うものである。

D) キリストに従う
他の賛美歌は、神学的に言えばディサイプルシップという主題、つまり「キリストの招きに応える」とか「キリストに従う」といった広いカテゴリーに分類した。

2「人間をとる漁師に」
  私に従いなさいというイエスの招きは、四つの福音書すべてに登場するほど重要である。イエスの招きというテーマは、セシル・フランセス・アレグザンダー夫人のヴィクトリア朝の賛美歌 “Jesus calls us o’er the tumult of our life’s wild restless sea”(『新生讃美歌』468, 469「せわしき日ごとの」)を思い出させる。しかし、江原美歌子氏のこの詞は私にとってとても啓発的である。例えば、「愛は海より大きい」というリフレインである。アメリカは二つの大きな海によって囲まれているが、我々は日本人ほど海の大きさを意識していない。多くの、いやほとんどのアメリカ人はいずれか一方の海さえ見たことがないのではないだろうか。日本人はアメリカ人よりもこの比喩を実存的に理解しているようである。イエスが12人の弟子を招いて福音を伝えたという物語に、この作詞者が「ハレルヤ、どっこいしょ!」という喜びを結び付けたことは感銘深い。キリストの招きに喜びを見出すということは、西洋の多くの賛美歌から抜け落ちている。その代わり、キリストに従うということは十字架を背負うことであるとみなす賛美歌は非常に多い。

10「いつもの道を」
  この賛美歌では、神の摂理と、神の導きに従うことで得られる思いがけない恵みが歌われている。全体を通して現れるのは、「旅:小道、道路、回り道、近道」といった誰にでもわかる言葉である。各節に共通する並列的な構造は、この賛美歌のメッセージを伝える上で効果的なレトリックであり、「もし〇〇であったら…」という条件文の後に「神さま…」と続く祈りが現れる(第1・2節)。この賛美歌は、キリスト者なら誰でも思い当る経験を歌ったものである。

11「つちくれの歌は」
  エレミヤ書18章1~6節に出てくる陶工と粘土の類比を展開させた賛美歌である。作詞者の吉高叶氏は、「主の光があふれて 歌う」(第1節)、「主の恵みがあふれて 歌う」(第2節)、「主の命があふれて 歌う」(第3節)など、素晴らしい表現で我々を魅了する。「土の器」は陶工の練りをただ忠実に受けるのではなく、喜びを持って受けるのである。神の練りを受け入れるということは、より大きな「大地の歌」の一部となることである。これも普遍的なテーマである。この賛美歌には、熟練の技による歌える英訳がぜひ欲しい。

15「本当にすっかり」
  作詞者の荒瀬牧彦氏は、「本当に空の器こそが、神の臨在で満たされる」という一つの基本的考えを効果的に展開している。彼は、「つくりぬしの恵みが 音をたてて流れる」(第1節)、「すくいぬしのことばが 底にまでとどろく」(第2節)、「神の霊の力が 扉あけ吹き込む」(第3節)といった力強い表現を用いている。そして、「聖なる愛で いたむ器を救いたまえ」や「聖なる愛で 欠けた器を用いたまえ」という第2・3節の最後の一行では、傷つきやすい器という表現に驚かされた。西洋のキリスト者の多くが持つこの陶工と器のイメージは、創造主のみむねのままに練りたまえと歌うアデレート・A・ポラードの20世紀初頭の賛美歌 “Have thine own way, Lord” (『新生讃美歌』627「成したまえ 汝がむね」)に染められている。しかし荒瀬氏は、現代のキリスト者のために、このエレミヤの言葉を新しく生き生きとした解釈で伝えているのである。

12「恐れにとらわれ」
  この歌は、私の好きなチャールズ・ウェスレーの詞の一つである “O for a heart to praise my God” (『讃美歌21』492「み神をたたえる」、『聖歌集』545「罪より心を」)を思い起こさせる。作詞者の宮﨑光氏は詩編51編12節に呼応しているが、その焦点は「清い」や「悔い改めた心」ではない。その代わり聖歌では、強さ(強い心)(第1節)、勇気ある心(第2節)、そして、開かれた心(第3節)を祈り求める詞となっている。開かれたというイメージは、「み言葉かがやく」「黒雲過ぎ去り」「日だまりに向かう」などの表現に含まれている。各節の最後は、「神よ 力を 生きる力を」「神よ みわざを 生きる勇気を」「神よ 光を 生きる希望を」という祈りで締めくくられており、これは懺悔の心ではなく、神の光に開かれた、生きる希望に満ちた心を表している。

結論
  私の考察は非常に簡潔で、これらの賛美歌の持つ深さは反映していない。賛美歌曲についても多くの考察が必要であり、それぞれの曲が詞をどのように支え、詞のメッセージを伝える意味でどう貢献しているかについてももっと多くが語られるべきである。ほとんどの曲は非常に歌いやすく、文化的文脈を超えて受け入れられるものであるが、文化的文脈を超えて受け入れらやすい詞や曲が必ずしも「より良い」賛美歌であるとは限らない。エリック・ラウトリーが言うように、「良い賛美歌とは、うまく書かれ、適切に選ばれ、心から歌われる」ものである。もしある賛美歌が、特定の信仰共同体で意味を持つのであれば、それは良い賛美歌と言える。その一方で、日本のキリスト者たちから生まれたこれらの賛美歌の多くが、文化を超えてより広いキリストの体に語り掛けてくることは実に喜ばしい。
  とりわけこれらの賛美歌に出てくる比喩は新鮮であり、啓発的である。いくつかの例に見られるアプローチは、西洋の賛美歌で使われた手法の延長上にあるが、その反面、一つの節がその前の節の内容を受けて積み上げられる手法や、各節における並列構造のレトリックなど明快な組み立ても用いられ、見事と言うほかはない。原詞に反映されているはずの繊細な言葉の選択やニュアンス、また重層的に表現されている意味合いまでも理解できたらどんなに素晴らしいかと思う。
  ただし、これらの賛美歌のすべてが「会衆歌」であるかどうかには疑問が残る。ソロや聖歌隊によって歌われる方が良いと思われるものもあるからである。ソロが最初に歌い、後から会衆が、場合によっては最終節だけでも歌唱に加わるのが良い歌もあるだろう。しかし同時に、これらの例は会衆歌という形がいかに拡大してきているかを物語っているのではないだろうか。これは、西洋の賛美歌にも当てはまる。テーマの多様性、音楽スタイルの多様性、そして比喩を含む表現方法の広がりは、私たちのうちに働く聖霊の創造性によるものである。変化に富むこれら創作賛美歌の実態は、私たちが礼拝において賛美を実践する上で、より広く、また多様なアプローチを求めているのではないだろうか。

  横坂康彦氏と荒瀬牧彦氏、また講演の準備に関わられた日本賛美歌学会の方々に、日本の新しい創作賛美歌に接する機会を与えてくださったことを感謝する。

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